【報告】生活クラブ創立60周年記念フォーラムを開催しました
生活クラブは、「生活」に根ざして“自ら考え、自ら行動する”市民が集う「クラブ」として、1965年の結成以来、消費者を排除した市場経済のあり方に異議を申し立て、消費者自らが生産・流通に参画する運動と事業を提案・実行し続けてきました。そして、2025年度は生活クラブ創立60周年の節目の年にあたります。これを記念し、生活クラブ創立60周年記念フォーラムを開催しました。
▼60周年を振り返って
よく60年続いたなと思うのが実感です。 何度も危機的なことがあったんです。 本当に、潰れなかったのは組合員の力です。今でもそう思ってます。僕は桑原史成さんとベトナム戦争反対の運動をやっていて、岩根邦雄さん(※2)ともそこで出会いました。よく岩根さんのところに出入りしていましたよ、学習会なんかにも出て。とても勉強になりました。その後の20年はそれを土台にしていろいろ考えましたね。でも反対運動をしていて勝ったことは一度もなかった。そこで反対運動以外の何かをやろうとなって、牛乳の共同購入がでてきたんです。
▼価格はどうやって決まるか
牛乳の共同購入を組織するには発起人が必要でした。岩根志津子さんは戸別訪問が得意でした。にこにこしながら、でも鋭く切り込んでいく。組合員はだんだん増えていきましたが、当時同じ15円の牛乳は他にもあって価格対抗力はなかった。この時、商品世界の問題があることを発見しましたね。価格はどうやって決まっているんですか?と一人が質問したんです。価格の仕組みがわからない限りはだめですよね、と。
▼水と空気と土地を汚さない
合成洗剤は汚れを落とすが水を汚染する。そこで牛乳の次は石けん運動をやりました。合成洗剤の製造販売を禁止を求める署名をやったんです。資本主義社会で製造販売禁止をするなんていうのは過激ですよね。都議会にも行きましたが、こんな過激な提案は通らないと言われましたけれど。でも、じゃあこの問題をどうやって解決するんですか、と尋ねるとそれは自分たちで考えてくれと言われて、じゃあ勝手に考えてやりますとなった。なんでもそうやって問いかけながらやっていたんです。
▼組合員活動の広がり
組合員は組合員を紹介してくれた。組合員の中にはすごい能力を持っている人はたくさんいましたよ。当時のいろいろな名簿を点検して、地図に落として、知っている人が2人いたら声をかける。2人から声をかけられたら仲間に入ってくれる、とそういう理屈ですね。でも急に組合員が増えると配る人がいない。知人に一緒にやらないかと声をかけましたけど、牛乳配達なんてという人は多かった。なんでそんなことやってるんだと言われることもあったけれど、「商品世界を変えたいんだ」と答えていました。
▼班の結成
組合員数が増えるといよいよ配れなくなってきた。なんとか考えてくれと言ったら、団地に住んでいる組合員が「うちまで届けてくれたらあとは配ってあげる」と言ったんですよね。そこから班が始まった。誰かが考えたわけではなくて、配れないから班ができた。保谷で組合員が増えた時も、センターに来て自分たちで仕分けしてくださいとお願いしたんですよ。そうしたら喜んでやってくれました。なにか間違えれば自分がやったんだからセンターまでとりに来てください、と。組合員との共同労働でした。
▼しくみを明らかに
米の取組みを始めた時は米販売は免許制で、生協なのにすぐには免許をもらえなかった。それに銘柄まで表示して販売するのはルール違反と言われました。その時、全部明らかにすることだと思ったんですよ。生産、流通の中身を明らかにする運動です。それまで「生協はより良いものを安く」とうたっていましたが、より良いものは安くならない。「中身の確かなものを適正価格で」とうたって社会や他の生協に問題提起をしていきました。組合員は、働いて税金を納めて、手元に残った可処分所得で消費材を利用し、社会問題を解決してきたんです。次は税金も自分たちでコントロールできないかとなります。代理人運動(※1)ですね。代理人として当選した人たちには「税金のしくみを明らかにし、市民に理解しやすいように説明して下さい」とお願いしていた。しくみを明らかにして理解して選択する、消費材と同じです。
▼自分で考え、自分で行動する
生活クラブがここまで潰れないできたのは議論をするからですよ。岩根邦雄さんは力で物事を進めなかった。必ず反対意見も尊重する。長い付き合いの中で、岩根さんから命令をされたことは一度もありませんでした。あの人はいつも「君ならどうする?」と聞いてきたので、僕は必ず三つくらい案を持って岩根さんに提案に行きました。一案だと論破されちゃいますから。論破された時に「どうしたらいいんですか」とたずねると「それは自分で考えろ、自分で考えてやってみるなら、いいよ」と言われました。
▼固定観念にとらわれず、新しい知見と発想を
固定観念にとらわれなければ新しい消費材はまだまだあるんですよ。生活クラブの消費材は添加物を抜くということばかり頭にあって、商品の価値とはなにかということを考えない。それでは商品世界には勝てない。労働、余暇、生活の質をあなた方で実験して作れば、ベストセラーになりますよ。いろいろな本を読んで、人を招いて、議論したらいいと思います。
※1)議員として生活者の声を地方議会に届ける仕組み ※2)生活クラブ創設者のひとり

▲当日は会場参加者に加えてオンラインでも多数の参加がありました

▲伊藤由理子生活クラブ連合会顧問(左)、河野さん(右)

▲西さん(左)と鈴木さん(右)

▲会場風景
展示する写真は、フォトジャーナリスト桑原史成さんの作品です。桑原さんは、熊本・水俣病がまだ知られていなかった当時に、現地の様子を先駆的に撮影し、世に伝えてきた写真家として知られます。一方では、東京綜合写真専門学校で岩根さんと知り合い、生活クラブの創立時の様子を知る当事者でもあります。生活クラブの生産者や組合員の活動の様子を数多く撮影されています。本展では桑原さんの著作写真集『生活者群像』を中心に、岩根さんや初期の組合員、生産者、生活クラブ運動の様子などを展示し、これまでの生活クラブの活動を振り返りました。
【2026年2月18日掲載】
第1部 基調講演
生活クラブ運動の原点「なぜ人は行動したのか」~おおぜいの「私」が問うてきたこと~と題して河野栄次さん(生活クラブ東京顧問)をお招きして基調講演をおこないました。河野栄次氏 略歴
1946年 東京都生まれ。1965年に岩根邦雄氏、志津子氏とともに生活クラブを結成し、牛乳の共同購入を開始。現在は生活クラブ東京顧問。
1946年 東京都生まれ。1965年に岩根邦雄氏、志津子氏とともに生活クラブを結成し、牛乳の共同購入を開始。現在は生活クラブ東京顧問。
よく60年続いたなと思うのが実感です。 何度も危機的なことがあったんです。 本当に、潰れなかったのは組合員の力です。今でもそう思ってます。僕は桑原史成さんとベトナム戦争反対の運動をやっていて、岩根邦雄さん(※2)ともそこで出会いました。よく岩根さんのところに出入りしていましたよ、学習会なんかにも出て。とても勉強になりました。その後の20年はそれを土台にしていろいろ考えましたね。でも反対運動をしていて勝ったことは一度もなかった。そこで反対運動以外の何かをやろうとなって、牛乳の共同購入がでてきたんです。
▼価格はどうやって決まるか
牛乳の共同購入を組織するには発起人が必要でした。岩根志津子さんは戸別訪問が得意でした。にこにこしながら、でも鋭く切り込んでいく。組合員はだんだん増えていきましたが、当時同じ15円の牛乳は他にもあって価格対抗力はなかった。この時、商品世界の問題があることを発見しましたね。価格はどうやって決まっているんですか?と一人が質問したんです。価格の仕組みがわからない限りはだめですよね、と。
▼水と空気と土地を汚さない
合成洗剤は汚れを落とすが水を汚染する。そこで牛乳の次は石けん運動をやりました。合成洗剤の製造販売を禁止を求める署名をやったんです。資本主義社会で製造販売禁止をするなんていうのは過激ですよね。都議会にも行きましたが、こんな過激な提案は通らないと言われましたけれど。でも、じゃあこの問題をどうやって解決するんですか、と尋ねるとそれは自分たちで考えてくれと言われて、じゃあ勝手に考えてやりますとなった。なんでもそうやって問いかけながらやっていたんです。
▼組合員活動の広がり
組合員は組合員を紹介してくれた。組合員の中にはすごい能力を持っている人はたくさんいましたよ。当時のいろいろな名簿を点検して、地図に落として、知っている人が2人いたら声をかける。2人から声をかけられたら仲間に入ってくれる、とそういう理屈ですね。でも急に組合員が増えると配る人がいない。知人に一緒にやらないかと声をかけましたけど、牛乳配達なんてという人は多かった。なんでそんなことやってるんだと言われることもあったけれど、「商品世界を変えたいんだ」と答えていました。
▼班の結成
組合員数が増えるといよいよ配れなくなってきた。なんとか考えてくれと言ったら、団地に住んでいる組合員が「うちまで届けてくれたらあとは配ってあげる」と言ったんですよね。そこから班が始まった。誰かが考えたわけではなくて、配れないから班ができた。保谷で組合員が増えた時も、センターに来て自分たちで仕分けしてくださいとお願いしたんですよ。そうしたら喜んでやってくれました。なにか間違えれば自分がやったんだからセンターまでとりに来てください、と。組合員との共同労働でした。
▼しくみを明らかに
米の取組みを始めた時は米販売は免許制で、生協なのにすぐには免許をもらえなかった。それに銘柄まで表示して販売するのはルール違反と言われました。その時、全部明らかにすることだと思ったんですよ。生産、流通の中身を明らかにする運動です。それまで「生協はより良いものを安く」とうたっていましたが、より良いものは安くならない。「中身の確かなものを適正価格で」とうたって社会や他の生協に問題提起をしていきました。組合員は、働いて税金を納めて、手元に残った可処分所得で消費材を利用し、社会問題を解決してきたんです。次は税金も自分たちでコントロールできないかとなります。代理人運動(※1)ですね。代理人として当選した人たちには「税金のしくみを明らかにし、市民に理解しやすいように説明して下さい」とお願いしていた。しくみを明らかにして理解して選択する、消費材と同じです。
▼自分で考え、自分で行動する
生活クラブがここまで潰れないできたのは議論をするからですよ。岩根邦雄さんは力で物事を進めなかった。必ず反対意見も尊重する。長い付き合いの中で、岩根さんから命令をされたことは一度もありませんでした。あの人はいつも「君ならどうする?」と聞いてきたので、僕は必ず三つくらい案を持って岩根さんに提案に行きました。一案だと論破されちゃいますから。論破された時に「どうしたらいいんですか」とたずねると「それは自分で考えろ、自分で考えてやってみるなら、いいよ」と言われました。
▼固定観念にとらわれず、新しい知見と発想を
固定観念にとらわれなければ新しい消費材はまだまだあるんですよ。生活クラブの消費材は添加物を抜くということばかり頭にあって、商品の価値とはなにかということを考えない。それでは商品世界には勝てない。労働、余暇、生活の質をあなた方で実験して作れば、ベストセラーになりますよ。いろいろな本を読んで、人を招いて、議論したらいいと思います。
※1)議員として生活者の声を地方議会に届ける仕組み ※2)生活クラブ創設者のひとり
▲当日は会場参加者に加えてオンラインでも多数の参加がありました
▲伊藤由理子生活クラブ連合会顧問(左)、河野さん(右)
第2部 ミニシンポジウム
「なぜ私は活動したのか? その原動力と、これからの世代に伝えたいこと」をテーマとして西貞子さん(企業組合ワーカーズ・コレクティブ凡 初代代表)、鈴木美紀さん(西東京・ワーカーズまちの縁がわ木・々(もくもく)代表)からお話をお伺いしました。西貞子さん 野菜の共同購入からワーカーズ・コレクティブへ
▼組合員活動との出会い
組合員活動をしようと思って加入したわけではないんですよ。ただ当時の支部大会というものに出席した時に、出資金を値上げするしないの議論をしていて、そこで岩根さんが「これはみなさんの組織なんですよ。いやだと思ったら反対してもいいし、やめればいい」というような感じで、一つも頭下げてお願いしますなんて言わないんですよ。何を言っているんだろう、と思って印象に残っていました。そしてなんの組織なのか、どんなものなのか、と思って近づいてみた、というのが始まりでしたね。当時は拠点もなく、倉庫のようなところに集まって話し合っていました。でもそこで聞く話は新鮮でした。安保闘争の時代、これだけの人が反対しても社会は変わらなかったという落胆がありました。でも岩根さんの「地域の中から、普段の生活を変えるというところから、世の中を変えていけるんじゃないか」っていうことに目を開かされたと思います。
▼地場野菜の取組み
しばらくして、「町田には畑があるのにスーパーには遠方の野菜が並ぶ。おかしい。私はこの野菜が食べたい」と地域の生産者をたずね地場野菜の取組みを始めました。価格、荷姿、配達全て自分たちで決めて、配達の道もわからなかったから組合員が職員の車に乗って道案内をしました。そうして取り組む事で、少しずつ地域や生産者が見えてきて、いろいろな事がわかってきた。生産者も今までは市場にしか出していなかったものを直接食べる人が見えると新鮮な思いで、双方にとって新しい出会いでした。やらされたっていうよりは本当に面白くって、夢中になりましたね。
▼ワーカーズ
活動の中で組合員労働について考えました。生活クラブ運動は生活を自治する運動。自分は自治の範囲を超えた労働、賃金を得る活動に取り組むべきではと思いました。その矢先にワーカーズ運動が提唱されたのです。野菜の実験取組みの中で、畑の野菜を余さず利用しなければ提携の継続はないと感じていました。ちょうどよく野菜はできないんです。採れすぎたり、足りなかったり、一度にできたり。ベテランの組合員はこうやって食べる、こうやって漬物にして保存するといろいろな知恵を持っていましたね。その経験から、たくさん採れたものを全ていただく、ということで農産加工ワーカーズを立ち上げました。
▼これからの組合員にむけて
今は食糧難の時代が目前と思っています。生活クラブは作る手と食べる手をつなげて営々と食料基地を築いてきました。きっと今後の大きな財産です。この活動を大事にしていってほしいと切に願います。
▼組合員活動との出会い
組合員活動をしようと思って加入したわけではないんですよ。ただ当時の支部大会というものに出席した時に、出資金を値上げするしないの議論をしていて、そこで岩根さんが「これはみなさんの組織なんですよ。いやだと思ったら反対してもいいし、やめればいい」というような感じで、一つも頭下げてお願いしますなんて言わないんですよ。何を言っているんだろう、と思って印象に残っていました。そしてなんの組織なのか、どんなものなのか、と思って近づいてみた、というのが始まりでしたね。当時は拠点もなく、倉庫のようなところに集まって話し合っていました。でもそこで聞く話は新鮮でした。安保闘争の時代、これだけの人が反対しても社会は変わらなかったという落胆がありました。でも岩根さんの「地域の中から、普段の生活を変えるというところから、世の中を変えていけるんじゃないか」っていうことに目を開かされたと思います。
▼地場野菜の取組み
しばらくして、「町田には畑があるのにスーパーには遠方の野菜が並ぶ。おかしい。私はこの野菜が食べたい」と地域の生産者をたずね地場野菜の取組みを始めました。価格、荷姿、配達全て自分たちで決めて、配達の道もわからなかったから組合員が職員の車に乗って道案内をしました。そうして取り組む事で、少しずつ地域や生産者が見えてきて、いろいろな事がわかってきた。生産者も今までは市場にしか出していなかったものを直接食べる人が見えると新鮮な思いで、双方にとって新しい出会いでした。やらされたっていうよりは本当に面白くって、夢中になりましたね。
▼ワーカーズ
活動の中で組合員労働について考えました。生活クラブ運動は生活を自治する運動。自分は自治の範囲を超えた労働、賃金を得る活動に取り組むべきではと思いました。その矢先にワーカーズ運動が提唱されたのです。野菜の実験取組みの中で、畑の野菜を余さず利用しなければ提携の継続はないと感じていました。ちょうどよく野菜はできないんです。採れすぎたり、足りなかったり、一度にできたり。ベテランの組合員はこうやって食べる、こうやって漬物にして保存するといろいろな知恵を持っていましたね。その経験から、たくさん採れたものを全ていただく、ということで農産加工ワーカーズを立ち上げました。
▼これからの組合員にむけて
今は食糧難の時代が目前と思っています。生活クラブは作る手と食べる手をつなげて営々と食料基地を築いてきました。きっと今後の大きな財産です。この活動を大事にしていってほしいと切に願います。
鈴木美紀さん 代理人運動から居場所事業へ
▼カルチャーセンター、生活クラブ
私も西さんと同じで生活クラブに加入したのは特に活動しようということではなく、近所の方に誘われたからですね。近所はみんな加入していて、組合員じゃないほうが少数派でした。加入した後は支部委員長も経験しましたが、生活クラブはカルチャーセンターのようなものでした。今みたいになんでもインターネットやSNSで調べられる時代ではなかったので、河野さんが来て、いろいろなお話をしてくださったことは興味深かったです。特に私は食べ物というより、水俣病やチョルノービリ原発事故などの社会問題に関心があったんです。
▼代理人となり議会へ
チョルノービリの原発事故では生活クラブのお茶からも放射能が検出されて、これは政治を変えなきゃいけないと感じた事が代理人につながったと思います。当時保谷市では生活クラブがごみの分別と資源化の運動をしていました。暑い日も寒い日も、センターに行くと職員や組合員でびんや缶を分別していました。「なんで私がこんなことをしなきゃいけないんだ、これは行政のやる事だ」と気づきました。でも議会ではごみや食べ物は女のやることと取り合われなかった。それでも私の先輩の代理人からずっと諦めず言い続けて、今はどの自治体だって当たり前に分別する。日常の暮らしから社会全体の認識を変えることができたと感じています。
▼代理人から居場所事業へ
その後は、生活クラブの活動に携わってきた仲間、理事や代理人を卒業した仲間と一緒に「まちの縁がわ木・々」を立ち上げました。きっかけは、イタリアではお酒を飲みながら政治談議をするような場所があるんですけど、そんな場所がほしいと思ったから。最初はお弁当やらいろいろやったんですけど赤字になってしまって、今はコミュニティ事業に軸足を置いています。居場所にはさまざまな事情を抱えた人がやってきます。彼らと話すうちに今の社会の問題というのはものすごく可視化されていきます。必要な情報、行政サービスなどに少しずつつなげていっています。
▼これからの組合員にむけて
人間同士の繋がりを大切にしてほしいです。今、スマホやAIはいろいろなことを教えてくれますけども、それは会話や議論ではない。学び合う場を生活クラブの中に作っていくと、みんなの中から自分で考えて自分で行動する、押し付けではなく、やらされではないことができると思います。そして、居場所を立ち上げるにはとにかくやってみることです。失敗だったらやめればいいんです。みんなが目と目を見て話し合って、けんかしながら議論する場所を作ってほしいですね。
▼カルチャーセンター、生活クラブ
私も西さんと同じで生活クラブに加入したのは特に活動しようということではなく、近所の方に誘われたからですね。近所はみんな加入していて、組合員じゃないほうが少数派でした。加入した後は支部委員長も経験しましたが、生活クラブはカルチャーセンターのようなものでした。今みたいになんでもインターネットやSNSで調べられる時代ではなかったので、河野さんが来て、いろいろなお話をしてくださったことは興味深かったです。特に私は食べ物というより、水俣病やチョルノービリ原発事故などの社会問題に関心があったんです。
▼代理人となり議会へ
チョルノービリの原発事故では生活クラブのお茶からも放射能が検出されて、これは政治を変えなきゃいけないと感じた事が代理人につながったと思います。当時保谷市では生活クラブがごみの分別と資源化の運動をしていました。暑い日も寒い日も、センターに行くと職員や組合員でびんや缶を分別していました。「なんで私がこんなことをしなきゃいけないんだ、これは行政のやる事だ」と気づきました。でも議会ではごみや食べ物は女のやることと取り合われなかった。それでも私の先輩の代理人からずっと諦めず言い続けて、今はどの自治体だって当たり前に分別する。日常の暮らしから社会全体の認識を変えることができたと感じています。
▼代理人から居場所事業へ
その後は、生活クラブの活動に携わってきた仲間、理事や代理人を卒業した仲間と一緒に「まちの縁がわ木・々」を立ち上げました。きっかけは、イタリアではお酒を飲みながら政治談議をするような場所があるんですけど、そんな場所がほしいと思ったから。最初はお弁当やらいろいろやったんですけど赤字になってしまって、今はコミュニティ事業に軸足を置いています。居場所にはさまざまな事情を抱えた人がやってきます。彼らと話すうちに今の社会の問題というのはものすごく可視化されていきます。必要な情報、行政サービスなどに少しずつつなげていっています。
▼これからの組合員にむけて
人間同士の繋がりを大切にしてほしいです。今、スマホやAIはいろいろなことを教えてくれますけども、それは会話や議論ではない。学び合う場を生活クラブの中に作っていくと、みんなの中から自分で考えて自分で行動する、押し付けではなく、やらされではないことができると思います。そして、居場所を立ち上げるにはとにかくやってみることです。失敗だったらやめればいいんです。みんなが目と目を見て話し合って、けんかしながら議論する場所を作ってほしいですね。
▲西さん(左)と鈴木さん(右)
▲会場風景
【同日開催】岩根邦雄追悼写真展~桑原史成『生活者群像』より~
2024年12月6日、生活クラブ創設者である岩根邦雄さんが92歳で逝去されました。折しもフォーラム開催時期は岩根氏の一周忌にあたります。岩根さんへの追悼として、足跡をたどりたいという思いから同時開催企画として、写真展が開催されました。展示する写真は、フォトジャーナリスト桑原史成さんの作品です。桑原さんは、熊本・水俣病がまだ知られていなかった当時に、現地の様子を先駆的に撮影し、世に伝えてきた写真家として知られます。一方では、東京綜合写真専門学校で岩根さんと知り合い、生活クラブの創立時の様子を知る当事者でもあります。生活クラブの生産者や組合員の活動の様子を数多く撮影されています。本展では桑原さんの著作写真集『生活者群像』を中心に、岩根さんや初期の組合員、生産者、生活クラブ運動の様子などを展示し、これまでの生活クラブの活動を振り返りました。
【同時開催】生活クラブ創立60周年のあゆみ
生活クラブ創立60周年に合わせて、これまでの主要な出来事の年表パネルや写真を展示します。あわせて、過去の『生活と自治』冊子や広報物など当時の生活クラブに関する資料を展示し、これまでの生活クラブの歩みを振り返りました。


【2026年2月18日掲載】